金立神社と徐福 大正15年佐賀県庁「佐賀の栞」
金立神社大祭の記録 奥の院・上宮・中宮・下宮
湧出御宝石と御湧水石 仙薬「フロフキ」
参考文献:村岡央麻「佐賀に息づく徐福」 佐賀民俗学四号 「伝説の扉」
 
  ■ 奥の院

 山頂には奥の宮があり、普通、奥の院という。古風な石祠には「最初之社」と刻んである。ここに立つと真向かいに脊振山系の雄大なる山脈が見え、名尾紙(手すきの和紙)をつくる村が真下に見える。

 奥の宮には保食神の親神である若御魂(わかみたま)の神(稚彦霊神)を祀ってある。祭神は徐福以外は神代時代の創世の神であることから考えても、旧藩時代に神社から提出されている「金立神社由緒記」中に本神社は神武の朝、振興時の御創設云々とあるようにその起源は古い。また、由緒記によると、金立大権現、即ち徐福だけが祭神として扱ってあるようであり、明治23年7月、鍋島直大の意によって編集された「金立山注書」にも同様に扱われている。民間の口碑も「金立さんは秦の徐福」と伝わっており、その通りかたく信じられている。

  ■ 上宮

 神社の起源は孝霊天皇の代と伝えられ、およそ徐福の時代と合致する。これによると、約2200年の歴史を持つことになる。昭和5年4月2150年大祭が執行され、昭和55年4月27日〜29日に2200年大祭が執行された。神殿は延喜年代祈願所として建立。輪かくよく整った広大なものだったとは、社記の伝えるところである。

 金立神社の座主坊は雲上寺といったが、明治維新の折、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の風潮で破却され、その余波が神社本殿にも及び明治中頃には小さな拝殿の奥に、自然石に刻み込んだ宝殿が残っていただけであった。現在の石造の神殿と拝殿は明治30年代に建造されたものであり、これは他に類のない建造物である。

  ■ 中宮

 中宮は、もと金立参道七曲り入口の東側山腹にあって、猿田彦大神、白鬚大明神を祭り祭日には田楽を奉納する例になっていた。明治初年廃社となって、現在、敷石や燈籠の台石などが残っているだけでその後、昭和28年3月参道の分岐点に新殿を築造、祭神は上宮本社の神々であり、従って元の中宮の祭神とは趣を異にしている。

  ■ 下宮

 下宮は山麓字金立にあり、所謂松原山頂上に鎮座する宮で、祭神は本社上宮と同じであり、昔勅使並に一般参詣者の便宜をはかって建立された。数軒の家しかないが今でもこの参道を松原と称している。また、ここに社務所がおかれている。

 金立神社の年間祭祀は大祭・例祭・祈願祭にわけることができる。一般に親しみの深いのは毎年の正月5日間の所謂「五ケ日詣り」と2月初午の日「初午祭り」であろう。この2つの祭り日には佐賀平野から金立山に通ずる各道路には山に向うもの、帰るものが続いて、初めて登山する者でも、路に迷うおそれはない程であった。

 金立山詣りの土産物は吹き筒(吹き矢竹)と石楠花だった。吹き筒の先に石楠花をくくりつけて、肩に担いだ参詣帰りの姿は、その頃の風物の一つであったといわれている。

 
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