「徐福のふるさと」佐賀と連雲港 ギャラリー
参考文献:村岡央麻「佐賀に息づく徐福」
 
  ■ 「徐福のふるさと」佐賀と連雲港

 豊かな実りの秋の風景も江南の田園風景と同じ、人の顔付きも変わりません。有明海の魚貝類は日本の海の産物の中で特異なものばかりですが、ムツゴロウ、あげまき、はぜのはしくい、ぐち、わらすぼ、しゃっぱなど、なんとほとんど同じ物が獲れて、ガタスキーやむつかけといった漁法まで中国東シナ海の沿岸、海州湾、寧波の干潟のものとほぼ同じなのです。
 加えて、船の櫓にもこの地方は特色があります。日本の大多数の地方は進行方向を向き、左側に櫓があるそうです。今では櫓を漕いで漁をする船はあまり見かけないのですが、筑後川のエツ漁、諸富町の有明海での漁は、その櫓は右側についています。中国では櫓は右についているのが一般的だといいます。
 また、淡水面が多く広がる佐賀地方は菱が多く見られます。菱は日本中どこでも見られる水生植物ですが、佐賀では秋の味覚として珍重されています。なかでも佐賀市に隣接する千代田町は菱の産地です。ここでは、ハンギー(半切)という木の桶に乗って菱を収穫する姿が秋の風物詩となっています。これと同じ光景を中国揚子江流域でも見ることができます。ちなみに、菱は古来より健胃薬として用いられています。
 連雲港市カンユ県あたりで見たアオの取水は、有明海に注ぐ川でも同じような風景が見られて感激したものでした。
 有明海の干潟に群生する七面草も同じように、あちらにもあって、真っ赤に広がる風景に驚いたものでした。ここにも、佐賀と中国の古代からの交流が証明されている気がしてなりません。
 さらに、吉野ヶ里遺跡から発掘された炭化米は、この地方で栽培された米が徐福のふるさと、中国江蘇省連雲港市の焦庄遺跡から発見された米と似ていると発表されています。

 

徐福と弥生の稲作 〜佐賀大学名誉教授:和佐野喜久生〜

佐賀・徐福国際シンポジウム 2008.10

 今年の4月に内藤大典著の「吉野ヶ里と徐福」という本が出版されましたが、内藤さんはご存知のようにこの佐賀の地に徐福伝説を史実として考える地域文化を根付かせた方ではないかと思います。
 徐福に関するシンポジウムは佐賀市制100周年記念事業として1989年に始まり5回続きましたが、第1回は「徐福伝説を探る」というテーマで行われ、江南文化と弥生文化との関係が論じられました。弥生の稲作については樋口隆康先生によって江南起源説が紹介され、日本の稲作は中国大陸の江南から直接伝来した可能性が強いと主張されました。
 徐福については、中国の司馬遷が編纂した歴史書「史記」に、紀元前210年に大船団が大陸から東方に向かって船出したと記述されておりますが、その船団が日本に上陸したかどうかについての記載はありません。しかし、徐福は平原広沢を得て王となり、帰らずと記述されていることから、徐福の一行が日本と思われる土地に土着したことは間違いないと思われます。このように中国での徐福は史実として記載されていますが、日本では単なる民間伝承として位置づけされ専門家によって研究されることはありませんでした。そのような中で、佐賀で徐福の日本上陸を史実の物語りとして何とか実証したいという願望が起こり、多分野にわたる多くの専門家を現地に派遣し、続いて調査結果に基づくシンポジウムを行い考察を繰り返してきました。その総合適正化を基にして書かれたものが「吉野ヶ里と徐福」の著書でしょう。この本には大きな2つのテーマがありますが、1つは弥生の稲作であと1つは弥生の人口問題です。人口問題については食糧生産と人口増加のことより、むしろ漢来系の弥生人骨の故郷をほぼ特定されたこと(筑紫平野の渡来系人骨は徐福村に近い江南人骨とDNAが酷似する)が最大の成果で、実際にマスメディアにも大きく報道されました。このことによって徐福と弥生の渡来人との関連が身近になったのですが、残念ながら著書にはこのことについては全く触れられておりません。この本を読まれた方は、さらに江南人骨に関する報告を一読されることをお勧めします。
 ここでは、1つのテーマとなった弥生の水田稲作についてお話しますが、なぜ弥生の稲作と徐福がつながるのでしょうか。日本では縄文晩期(紀元前5−4世紀)に玄界灘に面した菜畑・板付に水田稲作が渡来し全国に伝播したと言われていますが、それだけでは徐福とのつながりは出てきません。確かに日本の水田稲作の起源は菜畑・板付であったことは間違いないと思いますが、実は、日本への稲作の渡来はそれだけではなかったのです。有明海に面した佐賀・筑紫平野のイネの種類(品種)の主流(70%)は玄界灘のものとは全く違っていたのです。もし菜畑・板付のイネが筑紫平野に南下してきたのであったならば、イネの種類も同じであるはずです。ところが、写真(7、8)でも明らかなように、菜畑・板付の炭化米は小粒(短粒系、粒長4.1mm前後)であるのに比べ、吉野ヶ里のものは明らかに大きい(長粒系、粒長4.6mm前後)ことが分かります。この発見が、佐賀・筑紫平野の弥生稲作と徐福とのつながりを生むことになったのです。
 さて、日本の稲作起源を考えると、日本での最初の稲作は炭化米やプラントオパール(珪酸質の細胞)の発見から縄文後期(紀元前千数百年前)に遡ることは確かなようですが、それが確認された遺跡が青森、岡山、福岡、熊本などのようび全国に散在し、しかも遺跡の立地が高燥な段丘や山麓台地であることから、これらのイネは陸稲であっただろうと考えられます。しかし、これらの縄文の稲作がいずこで始まりどのように伝播したかについては分かりませんが、朝鮮半島から他の畑作物と一緒に渡来したのであろうと考えられます。
 私の弥生稲作論は1990年に書いた第2回徐福シンポジウムのテキストが最初ですがこの時は報告された史料に基づいて2つのことを書きました。1つは、世界の稲作起源はこれまで述べれらてきたように河川の上流域になる雲南やアッサムの山岳地帯から下流域に広まっていったということではなく、長江の下流域(河姆渡遺跡がある)に始まり川を上流に向かって遡行して伝播していった、と全く逆のことを主張しました。2つ目は、稲作遺跡として最も古い菜畑・板付遺跡の炭化米と筑紫平野のものとは種類(後者にはインディカを含むとした)が違うことから、佐賀・筑紫平野のイネは別ルートで新たに渡来してきた可能性がある、と主張しました。以上の2つの説(いずれも私が最初です)は、多くの計測データが得られた現在も変わっていませんが、炭化米の分類はインディカ・ジョポニカではなく短粒系(粒長が4.3mm以下)と長粒系(粒長4.4mm以上)にしました。
 その後、全国的な炭化米の粒形調査をした結果、全国に普及したイネ品種は短粒系が主流で、長粒系が主流となるのは佐賀・筑紫平野と遺跡数は少ないですが愛知・三重県の伊勢湾沿岸域のみで、それ以外では長粒系はまれにしか見られないことが分かりました。ここで強調しておきたいことは佐賀・筑紫平野は全国でも飛び抜けて弥生稲作遺跡が集中しているところですが、イネの品種においても他の地域とは著しく異なる特異的な傾向を示すところなのです。このように長粒系イネ品種は弥生時代を通して全国に普及拡大することはなく、佐賀・筑紫平野と伊勢湾沿岸域に閉じこもった形になり、日本の弥生時代の主要品種にはなりませんでした。
 次に、私が実写した炭化米の写真によって世界の稲作の歴史を説明します。(1)は河姆渡遺跡(B.C.4780年、浙江省)の籾と炭化米ですが、当然のように野生イネに似た極長粒種です。(2)は雲南省の大敦子遺跡(B.C.1470年)のもので、日本の短粒系に似た短円粒種で約3000年の間に粒形が大きく変化したことがわかります。両者を比較すると野生イネに似た河姆渡のイネが祖先種になるのが当然で、稲作の起源が長江下流にあったことが分かります。現在は長江中流域により古いイネが発見されたことから、稲作起源は長江中流域であるかのように言われていますが、古代稲作文化の充実性と河姆渡遺跡周辺域での河姆渡につながる稲作遺跡の分布状況から、私は河姆渡起源説を支持しています。イネが存在しただけでは稲作文化の発祥地にはならないからです。(3)はッ澤遺跡(B.C.4000年、上海市)の炭化米の中から短粒系のものを示したのですが、イネの栽培が始まって千年も経つと粒形に大きな変化が生まれ、日本のイネ品種に似たものが日本に渡来する4000年も前にすでに江南に誕生していたことが分かります。(4)は徐福村近くの江蘇省北部東海県の焦庄遺跡(B.C.1000年)の炭化米で、徐福との関連を語る重要な資料になります。(5)は朝鮮半島の付け根になる遼東半島の大嘴子遺跡(B.C.1000年、大連)のもので、中国大陸から朝鮮半島への稲作伝播を考えるときの重要な資料になります。(6)が韓国の松菊里遺跡(B.C.5世紀、忠清南道)、(7)が菜畑遺跡(縄文晩期)、(8)が吉野ヶ里遺跡(弥生中期)のそれぞれの炭化米を示しています。

 以上の炭化米の粒形を比較しますと、朝鮮半島の付け根の遼東半島の大嘴子と松菊里の炭化米は明らかに異なり、中国大陸から朝鮮半島に稲作が南下したとは考え難いことが分かります。一方、松菊里と菜畑両遺跡のものはよく似ていますが、吉野ヶ里遺跡のものは前3者のものとは明らかに異なり焦庄遺跡のものと似ていることが分かります。このような松菊里と菜畑の炭化米の類似性は、朝鮮半島から日本への稲作伝播を考えたくなりますが、時代がほぼ同じであることから、朝鮮半島の南西岸と九州北岸には同時に起源を同じくするイネが大陸から渡来したと考えるのが無理がないと思われます。なお焦庄遺跡は吉野ヶ里遺跡より800年ほど時代は古くなりますが、昔のイネの品種は同じ場所で長期間作られましたので、同じ品種が弥生時代もあったと考えられます。ここで初めて、吉野ヶ里の弥生の稲作と徐福伝説とのつながりがでてきたことになります。つまり、吉野ヶ里のイネ品種は菜畑に伝来したものを受け継いだのではなく、新しく外から渡来したものを作ったということです。この新しく渡来した品種こそが、徐福船団が持参した焦庄遺跡のイネ品種だったのです。ただ徐福が船出した紀元前210年と吉野ヶ里遺跡の弥生中期の時代を厳密に対応させる必要はないと思います。それは、渡来したイネがすぐに炭化米になるのではなく、その後の何らかの事故で埋まったものが炭化米になったのでしょうから、時代の多少のずれはあっても当然だと思います。
 次に、全国の徐福伝承地と焦庄遺跡の粒特性をもつ炭化米の出土遺跡の分布地との関係をみますと、不思議に両者に関連性があることが分かります。焦庄遺跡の炭化米は粒長4.83mm、粒幅2.97mmで長粒系の中でも大粒種になり、平均値としては吉野ヶ里遺跡のものよりやや大きくなります。炭化米でこれに近似する粒長4.6mm以上、粒幅2.8mm以上のものを長大粒種とすると、長大粒種が見られる遺跡は全国には以下の4地域の遺跡に限られます。第1は佐賀・筑紫平野の吉野ヶ里、須川、平塚川添・山の上の4遺跡、第2は徳島の大谷尻遺跡、第3は伊勢湾沿岸に阿弥陀寺、の2遺跡、第4は青森の垂柳遺跡がみられ、これらの遺跡それぞれの近接地には必ず徐福伝承地がみられます。
 佐賀・筑紫平野には武雄市、佐賀市、諸富町、八女市に、伊勢湾沿岸域には新宮市、熊野市、熱田神宮、小坂井町に、徳島には隣県高知県の佐川町に、青森には秋田県の男鹿市と青森県の小泊村のそれぞれに伝承地がみられます。これらのことを偶然の一致とするには事例が多すぎるのではないでしょうか。
 また、このような長大粒種の炭化米の分布域を考えると、この長大粒種は日本の炭化米の粒形変異の中では異常値に近いものであることから、変異の地域的連続性から当時のイネの伝播ルートを推察することができます。もしこの長大粒種が陸路によって青森まで北上したのであれば、当然その途中経路にも同じような粒形の炭化米がみられるはずですが、実際にはみられません。このように炭化米の粒形変異に地域的なつながり無いことから、稲作が青森へ北上した伝播ルートは対馬海流による日本海航路がその役割を果たしたと考えざるを得ません。さらに、今ここで初めて述べるのですが、同様な理由で、徳島および伊勢湾沿岸域にみられる長大粒種は黒潮によって太平洋航路を伝播ルートとして運ばれたのではないかと考えています。徐福伝承にも、徐福は佐賀に滞在後さらにいずこかに船出したことになっています(渡来ルート図は、内藤さんの本の図を一部変更して太平洋航路を付加しました)。ただ、全国への稲作の伝播は短粒系のイネ品種が主流でしたので、稲作伝播の主要ルートは航路と陸路のいずれかによる一歩一歩の伝播(隣村から隣村へ)であり、粒形変異の地域的連続性も時代的推移にもそのことを裏付けるような遺跡分布がみられます。海洋ルートは徐福船団による特別な伝播ルートであったと考えればよいでしょう。

 以上のように、中国大陸からの直接の航路による日本への稲作伝播を述べると、従来から日本の多くの考古学者が主張してきた朝鮮半島南部からの渡来人による稲作渡来説と対立することになります。ここで考古学者がその根拠とするものをみると、それは石器文化(大陸系磨製石器)であり、土器文化(凸帯紋土器、無紋土器)や墓制などの文化要素の類例性を強調していることです。確かにこれらのことは両国間に人的交流があったことの証拠でしょうが、稲作伝来の直接の証拠にはなりません。さらに重要なことは中国大陸から朝鮮半島北部を経て半島南部への稲作伝播を示す稲作遺跡の分布状況が、大陸からの伝播ルートを語るようなものは見られません。また平壌に南京遺跡(B.C.10世紀)、ソウル近くに欣岩里遺跡(B.C.8世紀)から短粒系の炭化米が出土していますが、これらのイネがどこから渡来したのかについては論じられていません。日本の考古学者も半島南部からの稲作伝播を語っても、半島南部の稲作起源については何ら具体的な主張はありません。また朝鮮半島の遺跡から出土する穀物種子は炭化米より畑作物種子(キビ、アワ、コウリャン、マメ)が多く、炭化米の粒形変異についても短粒系のみで日本ほど変化に富んでいません。水田稲作については、日本も朝鮮半島も江南から伝わったと解釈するのが自然ではないかと思います。
 なお、徐福船団によって渡来した人々は、限られた地域に閉じこもってしまったように思われます。それは、長粒系のイネ品種が佐賀・筑紫平野とか伊勢湾沿岸域から周辺域には普及拡大していないこと、さらに佐賀・筑紫平野中心に栄えた甕棺文化も地域が限られています。これらのことは徐福と共にきた渡来人の日本人集団への貢献度を考えると、恐らく徐福とともに来た渡来人集団が弥生時代の日本人の遺伝子構成を変化させるほどには大きくは発展しなかったのではないかとかんがえられます。

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有明海のむつかけ
中国のむつかけ
佐賀県千代田町の菱の実取り 揚子江下流の菱の実取り
 
  右櫓をこぐ漁船
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