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参考文献:村岡央麻「佐賀に息づく徐福」 佐賀民俗学四号 久保泉町史跡等ガイドブック
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金立の森
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スーフージ(崇福寺)跡
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久保泉町上和泉の東方にある小さい森。現在も上和泉の上古賀(東小路、北小路)の人々は昔からこの金立森に祀る金立神社(石の祠でこの祠は天保○○年三月吉祥日と側面に刻んである。)を元金立社と称して、祖先代々面田(祭田)を持って年一回部落全体でお祭という神事を忘れぬよう行なっている。
伝説によるとこの森は徐福一行が金立山入山の途中、この地で一泊した所で、当時この地一帯は森林地帯で老松が立ち並んでいた。徐福はその晩、松風の音に安眠することが出来ないで、次のような歌を詠んだとされている。
波の音 聞くまい山の かりずまい
苦はのがれぬ 松風の音
徐福は寺井津に上陸後、しばらく住んでいたが有明海から吹いて来る汐風の音や漁具の網を干す嗅いがいやでたまらなく海辺を離れて山へやって来たが、この山麓の森の中でも松風が一晩中聞こえて、安眠が出来ずこのような歌が生まれたのだと伝えられている。
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◆古村のスーフージ(地図@)
昔から神秘的な場所として土地の人が畏れ、敬っていました。崇福寺と書かれることもありますが、地籍簿にはカタカナで「スーフージ」と書いてあります。堀を巡らし、三重の土塁を築いてあり、地元の人は徐福屋敷と思っていたようです。
◆玉泉(地図A)
スーフージの東南の角にあり、ここからはいつも水が溢れ出て、人工で灌漑がなされていたようです。
◆ノコシ式分水農業
古代中国式の灌漑の工夫が見受けられ、縄文がつけられた素焼きの土管がスーフージの周辺に埋められていました。
◆三重の土とん
ドンダは中国語で土を盛り上げることをいいますが、土とんを同じくドンダといいます。この地方では、例えば洗濯物を積み上げている様子を、「洗濯物をドンダてて」と言います。
◆金鉱脈
昔金鉱脈があり、神代氏が事業として掘っていましたが、大量に出なかったので締め中止されました。
徐福がこのあたりに住んだ理由の一つにあげられています。
◆デンドン
鋳物場所跡が見られます。(残渣をひそかに家に持ち帰った人もいます)
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久保泉町川久保の北方白髭神社参道の東側にあったが現在は枯死し残っていない。
金立森を出発した徐福一行はここまで来て一休みし、前面の谷や山の様子を観察し、この方面は谷が深く、山も嶮しいと見て、西の方西原の岡を南に迂廻して西の谷に向ったところとされている。しかし、この松を鐘かけ松と呼ばれたのは、後年神代兵が川久保を領していた頃、この松の枝に鐘をかけて打ち鳴らし、士気を鼓舞したことに始まるとされている。
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久保泉町西原の西の谷、金立道の入口に徐福の一行が達し、いよいよこれから山道に入るため案内役を捜し求め、野良仕事をしていた百姓姿の八百平を見つけ案内を請うた。八百平は心よく承知し、持参の鎌をもって行手の草や荊、雑木の枝等を伐り払いながら山上へと案内した。そして、目的の山上へ達した徐福はその功を賞し、八百平を初めて見出した場所に水田を記念として彼に与えた(郷土史資料(金立町)には二反余りの水田とある)。この八百平の子孫は代々これを耕して来たもので、秋の実りの後は必ずその初穂を金立神社に供えていたとのこと。現在、八百平の子孫は中島氏で先代までは鎌(祭りに使用した鎌であろう。)徐福の姿絵等が残っていたらしい(五十年大祭の折は行列の先頭の露払いの役を代々この中島家が努めて来た)。
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久保泉町川久保から、東の方神埼町へかけて、「隈」がついた山が7つある。名付けて「川久保七隈」という。
隈の語源は、へんぴな片隅・奥まって隠れたところ・曲がりかどであって、川・山・道などの曲がった所、物かげ・秘密の場を言う。
ところが、川久保七隈は、平地を展望する古生層の丘陵で明るい。いずれも何等かの古代遺跡が想定される。これらの山々を開墾した時には多くの土器が出てきたことを、土地の人は話しています。
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古い発音 |
転化語 |
当て字 |
高さ |
1すすくま |
芒隈 清隈 須々隈 |
鈴隈 |
139.5 |
2おおくま |
大隈 雄隈 おふくま |
帯隈 |
177.3 |
3わさぐま |
輪差隈 (岩田の北) |
早稲隈 |
174 |
4ほのくま |
烽山 火の隈 日隈 |
日の隈 |
148 |
5さきぐま |
松崎隈 (日の隈の東南) 茶杵隈 |
茶臼隈 |
120 |
6なかぐま |
中隈 (横山) (隈本山) (天童山) |
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7こぐま |
小隈 |
狐隈 |
50 |
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東の祇園原から檪木・上和泉・草場・篠木野・一丁田線の標高15mから、10mの尾崎・下一・佐大農場・下五・六・村徳永・大野原へかけて、点々と甕棺群や弥生時代の竪穴住居跡がある。
檪木集落から少し北の一帯もそうで、もとは相当広い範囲にわたって埋蔵していたらしく、弥生土器片が多く見当る。
ここのかめ棺群は、2箇のかめを組み合わせた「差合」式や「合口」かめ棺で、斜に埋められた弥生中期の須玖式である。
棺内からは遺体も副葬品も見当っていないという。
このような大形かめは、それなりの技術がないと製作されないが、各集落毎に製作したかそれとも専門の技術集団集落があったかは明らかでない。いずれにしても文化水準の高まりはあった。
この共同墓地群近くの納骨堂南をぶどう園に造成中昭和30年頃横尾正幸氏が発見された石製溶范がある。これは砂岩の切り石に、諸刃の剣である矛(戈または鉾とも書く)の形を刻み込み、これに溶けた銅を流し込み同型のものを沢山鋳造した鋳型である。
これで造られた矛が、実戦には使えなかったが、権力誇示又は宝物として所有され、祭祀には神前に供えられたようだ。いずれにしても、小さな集落の長でなく、いくつかの集落を統合した権力者の私有物と推定される。しかし、この溶范で鋳造された銅戈は発見されていない。
県内でも他に一例があるだけで、貴重な弥生の遺物であったから、東京・上野の国立博物館が買い上げ、今は国の重要文化財となっている。
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神籠石は佐賀市の北部山麓に築かれた古代山城(やまじろ)である。帯隈山(標高175メートル)を中心に切石を並べた列石線が約2.4キロメートルの長さで一周し、途中、北面に門跡1ヶ所南面に水門推定地3か所がある。昭和16年(1941)に発見され、同39年に発掘調査された。
列石線は帯隈山から天童(てんどう)岳、清兵衛(せいべい)山にかけ、尾根上を地形に合わせて複雑に屈曲し、途中、小さな谷を渡る場合は出水に備えて水門を設けていたと思われる。全体としては北側山頂部から下って南側山裾を廻り、2、3の低丘陵を取り囲んで馬蹄(ばてい)形状をなす。列石の用材は花崗岩(かこうがん)で、高さ60センチメートル前後の直方体に切りそろえられたものである。
神籠石という名称は、かつてこの列石が神域を示すものと考えられていたことによるが、発掘調査の結果、実は列石は土塁(どるい)の基礎であり、その背後上部には高さ2、3メートルの土塁が版築(はんちく)によって築かれ、また石塁前面の平坦部には約3メートル間隔で木柵が立てられていることがわかっている。
神籠石は現在、北部九州から瀬戸内一部にかけて12か所知られる。しかし、その存在は文献に明らかでなく、また規模や立地、域内に建物跡がみられないなどの点で、基肄城(きいじょう)跡など朝鮮式山城と様相が異なる。6、7世紀ごろの築城とされるが、正確な年代、目的、性格となると不明で、今日でもまだ謎が多い。
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近江(滋賀県)吹下より勧請されたと伝える白鬚大明神を祀る『白鬚神社』の祭神や勧請年代、十九丸の供奉集団や奉納される田楽の性格考証は「佐賀民俗学」第四号を御覧いただくとして、我が国古代の神信仰と白鬚社の特色について觸れてみたい。
在天の神の降臨道筋に神体山がある。古式の社には、必ず神体山がある。白鬚社の神体山は、社の裏の鈴隈山(昔は清隈と書いた)である。
我々は社に詣るとき、必ず口をゆすぎ手を洗う。昔は境内に入る前に、体ごと清流に身を浸し、罪や汚れを洗い流して初めて境内に入った。
祭典に従事する人は一定期間、堂に籠り、斎戒沐浴し寝食・行動の精進をした。この禊ぎの場を持った籠り堂が中宮で、現在の白鬚社のある所。上宮は社の東台地上に。下宮は県道鳥栖川久保線沿いの石の鳥居の南側一帯であった。この鳥居からが参道で、田楽もここから「道行き」をしていた。〔神上は、上宮(かみや)辺が本当である〕
祭神は、応神天皇・神功皇后・武内宿禰の三柱説と、豊受比売命・猿田彦神・武内宿禰の説、新羅神説とがある。
勧請年代も、肥陽古跡記は金立権現鎮座の時(紀元前210年)、佐賀県神社誌要は継体天皇18年(527)、敏達天皇3年(574)は祭典記録、推古天皇34年(626)は花納丸文書、三代実録では貞観12年(870)とそれぞれ異なっている。
昭和49年に1400年祭が行なわれたのは、敏達天皇3年説による。
十九丸の地名や丸祭の形態からすれば、花納丸文書が重視される。祭祀集団であったか・貴族豪族集団・逃避難民集団・農耕技能集団・或いは渡来外来集団であったか、論議されている。
白鬚の鬚はあごひげ、村徳永の白髯はほおひげ、髭はくちひげ。
現社殿の「流れ造り」は、記録が無いので建造年は不明。
社前の三の鳥居は、木造の「両部鳥居」で、木柱の前後に控え柱が設けられ、本柱と控え柱の間には貫を通し補強された古式の鳥居で、神仏混淆の神社に多い。また、四脚鳥居ともいう。「丸持の家」の祠の祭神には、薬師・不動・観音・地蔵・天神・弁財天・本地阿弥陀が祀られたと寛文11年(1671)の記録が在り、神仏混淆の社であることが窺われる。
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丸山遺跡は金立山南麓より平野部に突出した丘陵上にあり調査前は雑木林であった。当地周辺は戦後蜜柑園として造成された為、多くの古墳が何らかの破壊をうけていたのに較べ、幸いにも旧来の姿を残していた。
調査は昭和52年1月から昭和57年10月まで断続的に実施され、縄文時代晩期〜弥生時代前期(約2200〜2400年前)の墓と5・6世紀の古墳群などが発見された。
縄文時代のものには甕棺(3基)、支石基(130余基)、石棺(3基)があり、遺構の内部及びその周辺から、水稲耕作を裏付ける籾痕のある土器や石器等多数出土した。
古墳は10基あり、そのすべてが径4〜14mの円墳であるが、内部主体には竪穴式石室、横穴式石室、舟形石棺などがあり変化に富む。古墳からの出土遺物としては土器をはじめとして、鉄製品(剣・刀子・鏃・鉾・釧・斧・鏃等)や石製品(小玉・管玉・勾玉・琴柱形石製品)がある。
このように丸山遺跡では墳墓形式や出土品に多種多様なものがあり、極めて学問的に高い価値をもつ複合遺跡ということができる。
丸山遺跡は吸収横断自動車道の建設予定地内に存在していたので、その保存に関して論議を呼んでいたが遺跡の西方約500mに移転されることになり、野外博物館的施設として活用されることになった。
昭和58年2月22日には、舟形石棺を形どったタイムカプセルが公募の品を入れて、3号墳内に納められた。
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平成2〜3年に行なわれた圃場整備現地調査で、少し離れた所から弥生中・後期の竪穴住居跡やその後の堀立柱建物跡が確認され、この地の農耕集落が分かりました。
その西北、運動場の南50m水田の中に昭和29年まで、大きな扁平石がありました。これが脊振山系南麓で初めて発見された『支石墓』であります。
支石墓は中国・朝鮮に多い巨石ドルメン系墓で、わが国では弥生時代に玄海沿岸に発達しました。墓の内部は土こう又はかめ棺墓の埋葬施設で、これが壊れないように数箇の石で支え、扁平巨石を蓋としました。
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