片葉の葦
徐福の船が搦の所さい、はいってきた時、あの、押し分けてきたてですね。そいで、その葉が落ちたわけですね。落ちたとがえつになって残ったとが、片葉の葦ちゅうて、あすこは、片一方だけ、葉っぱの付いた葦のずうっと分布してですね・・・。
東寺井 原田 角郎さん
こいから(先は)、搦ちゅうてあんもん。そいぎ、そけぇ行かんば。
昔の秦の始皇帝の時分な、徐福ちゅうて、今、金立山ちゅうもんね。あん人たんの、はいって来なったところが、片は葦ちゅうて、船にずうっとはいってきたけん、片一方。片葉葦ちゅうとがそいじゃん。押し分けて、ずうっと行こうが。そいぎ、片一方落ちて、こっち側落ちて、えつ(という魚)になって。そして、未だにもう、片葉葦ちいう。
上 下 伊藤 二郎さん
金立さんが、支那(中国)から来んさったでしょう。あすこに盃ば流しなったが、流れ着いたけんが、搦に上陸しなったとでしょう。そいであすこが浮盃て。うきさかずきち書いてあんもんね。そいから上陸しなっ時、海がなんじゃい光っとったと。そいで、そこに上がいなったち、そいで、あつこがエゴになっとんもんじゃけん、そいで、照江ていう。そいが寺井になったと。で、そっからあがいなった時に、海岸のこっちゃから、昔も今も同しことでしょうね、あの、葦のいっぴゃあ繁っとったもんじゃけん、そこばこうこ(身ぶり手ぶりで説明)、かき分けて上がいなったけんが、神さんのあがいなったとじゃもんじゃっけん葦は遠慮して、葉が片っ方にしっきゃこう、なびいてしもうたと。片っ方にしきゃちいとらんと、片葉のよしちいうと。そういう話たんたぁ。
三重 糸山 定雄さん
金立さんの井戸
一時、金立さんの井戸ちゅうて、寺井の園田さん方に今もあるが、こりゃもう、幾ら汲んでも干しあがらんちゅう話なたぁ。
あの井戸が、幾ら汲みあげても干しあがらんち。井戸さらえしゅうと思うてくさんたぁ、水を幾ら汲んでも、干しあがらんちゅう話を聞いとっ。
その井戸が金立さんの井戸ちゅうて聞いとる。その井戸の水でお手洗いしよんさったち。
そして、非常に旱魃してなたぁ。夏の旱魃で、稲も枯死するような時は、金立山、おくだりすれば、雨乞いちゅうてなたぁ、もう何年か前までおくだりのあったと覚えとったんたぁ。
上大津 重松 初次さん
徐福伝説
波の音きかんが為に奥山に苦はのがれられん松風の音
東寺井 吉田 よねさん
徐福が秦の始皇帝時代に、「不老不死の薬、取って来い」と言われて、搦に流れ着いたと。
そいでその、流れ着いて、上陸なさった所が、片葉の葦ちゅうて、片一方さいばかいしか葉が立っとらんらしい。そこを、分けのぼって搦に来て、搦の権現さん、祭ってあんもんね。そこに、一時、居住なさったやろう、搦に。ところが、あつこが、漁師で漁村でさい、あの、網に渋ひくじゃろう。そいぎ、「渋臭か」と。そいで、北山に登って、金立山の方に行かした。
そいぎ、金立では何かあつこの、だいじゃい、偉か人じゃろうばってん、その娘さんと夫婦になって、そして暮らしておられたと。
「苦はのがれぬ松風の音」と、そこから話がきたと。
加与丁 吉武 藤松さん
金立さんの話ばってん。こりゃあ上がらした金立さんちゅうのは、もうあんた達の知っとっさっと思うばってんが、あの、支那の徐福ちゅう、あの、秦の始皇帝から、「不老不死の薬ば取って来い」ち、言われて、金立さんに登って行かしたという。
あの人がずうっと行きなった時に、千布にきじゃ、
「もう、神さんの通いなっもんじゃけんがぁ」
ち言うので、千反の反物をずうっと道に敷いて、そこの上ば歩うて行きなったと。そいで千布ちゅう名前ができたと、いうふうに聞いとります。
三重 糸山 定雄さん
私たちこまかとき聞いとったその、大きな盃がございましたですもん。昔の子供だましだから、やっぱいその、盃に乗って来たとかちゅう。
やっぱし、大体、我々のこまか時、坂本神社にはその大きな帆船の、ずうっと昔の、帆船ですね、あれ、後にはお宮にこう、飾ってございました。
もう、船からお出でんさったちゅうばってんなたぁ。そして、こっち来てこの、搦の、浮盃の、浮盃の搦に上陸して、そして、ここの一番先の聖人さんちゅうて、そこにこう、ちょっと案内しんさったわけなたぁ。そうして、そこで、その北脇に、今あの、丸三屋ちゅうスーパーのできとってござんすっじゃん。そこは、われわれがこまか時までは池でござしたもん。そこに、そこが池であって、直水の池と言って、そこにその盃を浮かべて、その、酒盛りして話しよんさったちゅうそうでございます。
そいでその、由来をとって浮き盃ちて、盃を浮かして、酒盛りがあるとでしょう。そいで、それを名をとって、浮盃とかしたちゅう話でございました。
そして、徐福の一行は、こっちおったところが、どうもその、漁村で渋臭いでしょう。そいもんじゃけんから、そいから目的は不老不死の草をですねぇ、取りたいという。
そいでこっち渋臭うしておられんもんじゃから、この北の金立山にお上んさったち。
東寺井の井戸は、あの底なし井戸といってですね、あすこは非常に、寺井は昔その、火事ができよって困るもんだから、あすこにその、井戸を掘ってたそうでござんすっ。その伝説と。
金立山の方へはどういう道筋を通って行ったかというと、これから、三重通って米納津に行って、米納津から佐賀の材木町、あすこを通って、そして、先は尼寺に行って、あいからずうっとお上りになったそうでございます。尼寺から千布に行って。
徐福の行列が千反の布を千布に敷いたというのが、千布の由来らしいですね。途中でお辰さんに徐福が恋をしたらしいと。恋人らしいですよ。
結局、金立山で不老不死の薬草を見つけて、そしておられたとが、あつこで病死して徐福は亡くなんさったて。金立山で。あつこで「苦はのがれの松風の音」と、あつこでお詠みなったそうです。
浮盃 中溝 義作さん
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