諸富町の徐福伝説
 
浮盃 諸富の民話
御手洗井戸  
新北神社のビャクシン  
参考文献:村岡央麻「佐賀に息づく徐福」 佐賀民俗学四号
 
  ■ 浮盃

 今から二千二百年ほど前、中国を統一した秦の始皇帝は、徐福に不老不死の妙薬を求めさせた。
 日本にやってきて、着いたところは有明海だった。徐福は大きな盃を海に浮かべた。盃は筑後川の下流に漂着した。徐福はその地から上陸、生い茂る葦を手でかき払って通ったので「片葉の葦」が生えるようになった。徐福はこの地を浮盃と名づけ、仮家を建てた。水が不便だったので、井戸を掘り、徐福がその水で手を洗ったので、手洗いとなり、のちに寺井の地名となった。

徐福下宮の石碑
 
  ■ 御手洗井戸

 寺井の万福寺所蔵の「寺井由来」によると和銅三年(710年)京太郎、町太郎なる者が、徐福の掘った井戸のことを知り、再びこの井戸を掘った。当時、行基菩薩が肥前に来て、天山から入江を眺めると、この地が光って照り輝いていたので、照江と名づけたが、徐福の井戸をあばいたというので、火災などが続発した。当時、この地の三か寺の僧侶が相談して、地名を照江から寺井と改称し、人災・火災を避けるため、井戸に石蓋を覆った。
  その後、井戸の所在が不明であったが、大正十五年十月二十一日、史跡調査のため、この地を発掘したところ、地下三米の下に井の字形した丸太の上に五個の石を覆った神秘の古井戸があることを発見した。これが徐福の掘った井戸であろうということになった。
  徐福一行は妙薬を求め、金立山を目指して旅立った。徐福は秦国には帰国せず、金立神社の祭神となり、庶民の信仰をあつめた。
 現在神秘の古井戸は、諸富町寺井の園田良秀邸宅に「御手洗井戸」として祀られている。

 
  ■ 新北神社のビャクシン

 諸富町の新北(にきた)神社には、樹齢二千二百年の「びゃくしん」の古木がある。日本では珍しい古木であり、現地には「徐福が中国の江南から持ってきた」という伝承が残っている。根回り4.1メートル、枝張り6メートル、樹高20メートルである。周囲は一面の水田で平地であるが、二千二百年前に既に陸地化していたことを示していると考えられる。 諸富の郷土史家原田角郎氏は、諸富町の寺井津が天然の良港であると紹介した上で、明治後半から始まった有明海沿岸漁民による、朝鮮半島沿岸への遠洋漁業を紹介している。「諸富町の遠洋漁業は大正時代に始まった。手漕ぎの和船に帆をつけた僅か五トン〜十トン位の船であった。コースは大立野(現佐賀市)―島原―野母崎―平戸―對馬と廻り、對馬を朝三時に発って、夕方には釜山に着いた。今日では、朝鮮半島や大陸への渡航に、手漕ぎの小帆船を用いるのは想像を絶する困難と危険が考えられるが、海で鍛錬した気象予知を、慎重に計算していたのではなかろうか。」と記されている。小さな帆をつけた手漕ぎの舟で、朝鮮半島沖合いまで出漁していたというのは(実際には片道十数日かかったようである)、全く驚きであるが、これは有明海の海人達の古い時代から続いていた、遠洋航海に対する心意気を示すものではないだろうか。

 
  ■ 諸富の民話

 諸富のご年配の人たちに徐福さんについてのお話を伺ってみました。
 今なお人々の間に徐福が生きている臨場感とでもいうものをお伝えできるよう、お話を聞いた時そのままに方言で記載しています。
 わかりにくい部分には文字に色をつけ、マウスの矢印を上にのせると標準語が表示されるようにしています。
 (例:こけぇ置いてくんしゃい)佐賀の方言もお楽しみください。

 

片葉の葦

 徐福の船が搦の所さい、はいってきた時、あの、押し分けてきたてですねそいで、その葉が落ちたわけですね。落ちたがえつになって残ったが、片葉の葦ちゅうて、あすこは、片一方だけ、葉っぱの付いた葦のずうっと分布してですね・・・。

東寺井 原田 角郎さん

 こいから(先は)、搦ちゅうてあんもんそいぎそけぇ行かんば。 昔の秦の始皇帝の時分な、徐福ちゅうて、今、金立山ちゅうもんね。あん人たんの、はいって来なったところが、片は葦ちゅうて、船にずうっとはいってきたけん、片一方。片葉葦ちゅうとがそいじゃん。押し分けて、ずうっと行こうがそいぎ、片一方落ちて、こっち側落ちて、えつ(という魚)になって。そして、未だにもう、片葉葦ちいう。

上 下 伊藤 二郎さん

 金立さんが、支那(中国)から来んさったでしょう。あすこに盃ば流しなったが、流れ着いたけんが、搦に上陸しなったとでしょう。そいであすこが浮盃て。うきさかずきち書いてあんもんね。そいから上陸しなっ時、海がなんじゃい光っとったと。そいで、そこに上がいなったち、そいで、あつこエゴなっとんもんじゃけんそいで、照江ていう。そいが寺井になったと。で、そっからあがいなった時に、海岸のこっちゃから、昔も今も同しことでしょうね、あの、葦のいっぴゃあ繁っとったもんじゃけん、そこばこうこ(身ぶり手ぶりで説明)、かき分けて上がいなったけんが、神さんのあがいなったとじゃもんじゃっけん葦は遠慮して、葉が片っ方にしっきゃこう、なびいてしもうたと。片っ方にしきゃちいとらんと、片葉のよしちいうと。そういう話たんたぁ

三重 糸山 定雄さん

金立さんの井戸

 一時、金立さんの井戸ちゅうて、寺井の園田さん方に今もあるが、こりゃもう、幾ら汲んでも干しあがらんちゅう話なたぁ
 あの井戸が、幾ら汲みあげても干しあがらんち。井戸さらえしゅうと思うてくさんたぁ、水を幾ら汲んでも、干しあがらんちゅう話を聞いとっ。
 その井戸が金立さんの井戸ちゅうて聞いとる。その井戸の水でお手洗いしよんさったち
 そして、非常に旱魃してなたぁ。夏の旱魃で、稲も枯死するような時は、金立山、おくだりすれば、雨乞いちゅうてなたぁ、もう何年か前までおくだりのあったと覚えとったんたぁ

上大津 重松 初次さん

徐福伝説

 波の音きかんが為に奥山に苦はのがれられん松風の音

東寺井 吉田 よねさん

 徐福が秦の始皇帝時代に、「不老不死の薬、取って来い」と言われて、搦に流れ着いたと。
 そいでその、流れ着いて、上陸なさった所が、片葉の葦ちゅうて、片一方さいばかいしか葉が立っとらんらしい。そこを、分けのぼって搦に来て、搦の権現さん、祭ってあんもんね。そこに、一時、居住なさったやろう、搦に。ところが、あつこが、漁師で漁村でさい、あの、網に渋ひくじゃろう。そいぎ、「渋臭か」と。そいで、北山に登って、金立山の方に行かした
 そいぎ、金立では何かあつこの、だいじゃい偉か人じゃろうばってん、その娘さんと夫婦になって、そして暮らしておられたと。
 「苦はのがれぬ松風の音」と、そこから話がきたと。

加与丁 吉武 藤松さん

 金立さんの話ばってんこりゃあ上がらした金立さんちゅうのは、もうあんた達の知っとっさっと思うばってんが、あの、支那の徐福ちゅう、あの、秦の始皇帝から、「不老不死の薬ば取って来い」ち、言われて、金立さんに登って行かしたという。
 あの人がずうっと行きなった時に、千布にきじゃ、
 「もう、神さんの通いなっもんじゃけんがぁ
ち言うので、千反の反物をずうっと道に敷いて、そこの上ば歩うて行きなったと。そいで千布ちゅう名前ができたと、いうふうに聞いとります。

三重 糸山 定雄さん

 私たちこまかとき聞いとったその、大きな盃がございましたですもん。昔の子供だましだから、やっぱいその、盃に乗って来たとかちゅう。
 やっぱし、大体、我々のこまか時、坂本神社にはその大きな帆船の、ずうっと昔の、帆船ですね、あれ、後にはお宮にこう、飾ってございました。
 もう、船からお出でんさったちゅうばってんなたぁ。そして、こっち来てこの、搦の、浮盃の、浮盃の搦に上陸して、そして、ここの一番先の聖人さんちゅうて、そこにこう、ちょっと案内しんさったわけなたぁ。そうして、そこで、その北脇に、今あの、丸三屋ちゅうスーパーのできとってござんすっじゃん。そこは、われわれがこまか時までは池でござしたもん。そこに、そこが池であって、直水の池と言って、そこにその盃を浮かべて、その、酒盛りして話しよんさったちゅうそうでございます。
 そいでその、由来をとって浮き盃ちて、盃を浮かして、酒盛りがあるとでしょう。そいで、それを名をとって、浮盃とかしたちゅう話でございました。
 そして、徐福の一行は、こっちおったところが、どうもその、漁村で渋臭いでしょう。そいもんじゃけんから、そいから目的は不老不死の草をですねぇ、取りたいという。
 そいでこっち渋臭うしておられんもんじゃから、この北の金立山にお上んさったち。
東寺井の井戸は、あの底なし井戸といってですね、あすこは非常に、寺井は昔その、火事ができよって困るもんだから、あすこにその、井戸を掘ってたそうでござんすっ。その伝説と。
 金立山の方へはどういう道筋を通って行ったかというと、これから、三重通って米納津に行って、米納津から佐賀の材木町、あすこを通って、そして、先は尼寺に行って、あいからずうっとお上りになったそうでございます。尼寺から千布に行って。
 徐福の行列が千反の布を千布に敷いたというのが、千布の由来らしいですね。途中でお辰さんに徐福が恋をしたらしいと。恋人らしいですよ。
 結局、金立山で不老不死の薬草を見つけて、そしておられたとが、あつこで病死して徐福は亡くなんさったて。金立山で。あつこで「苦はのがれの松風の音」と、あつこでお詠みなったそうです。

浮盃 中溝 義作さん

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