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徐福
 
 
始皇帝
 
 
中国の戦国時代
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 第一章

 秦の始皇帝の臣徐福が仙薬(不老不死の薬)を求めて蓬莱島へ渡ったという故事は(紀元前219年−210年)、既に司馬遷が史記(紀元前90年)に於いて明らかにしている。徐福は二千二百年ばかり前の中国戦国時代の斉の人である。幼名を市(フツ)と言った。市は元王族の出身で、仙術を身につけて講ずるようになってからそれに相応しく、市から福に改めたものと思われる。
 そして史記の著者司馬遷は徐福の死後百年も経っていないから、徐福の記事は大体真に近いものと思われる。始皇帝は今から二千二百年前の人物で、周が滅びた後の春秋戦国の乱世の末に秦の王位をついだ。その頃の秦は函谷関の西にある小国で、いわゆる北狄西域などの蛮族と絶えず戦いつづけていた。従って黄河の下流にある、燕・斉・趙・魏・韓・楚などの当時の「文明国」からは好戦的な蛮族あつかいをされていた。三歳のころ、趙の国に人質となり、秦の荘嚢王が趙を攻めて邯戦の都をかこんだ時には、母子共に命を失うところであったが、かくまってくれるものがあって危うく助かり、父の国に帰ることができた。まもなく父の荘嚢王が死んだので、十七歳で王位につき二十二歳のとき、成年の式を行なって自ら政治を行なうことになった。
 まず太后の寵臣ロウアイの乱を平げ、その一党を車裂梟首の極刑に処して内乱の根を絶ち内政と軍備を整えて諸国の征服に乗りだした。
 まず兵力の弱い韓を討伐し、宿敵趙を滅ぼし、つづいて魏・燕・楚・斉を併合して、中国有史以来初めての大帝国を建設し、自ら始皇帝と称した。そして自らを「朕」といい、その命令を「詔」と言うのも彼に始まった。彼は名宰相李斯の補佐によって、韓非子の法治主義と君主独裁論「マキヤベリズム」に心酔して、孔孟派儒家の王道政治論を迂遠の説であり国家統一の妨げとなるとして排斥した。
 権力主義の国家統一に猛進したので、秦に滅ぼされた燕趙以下の六国の遺臣達は祖国復興の機を狙って、しばしば反乱と暗殺を企てた。始皇帝はその対策として、徹底した武力による改善を行ない、諸国の名城を破壊し、各地の武器を没収して首都咸陽に集め、これを熔かして十二の金人(銅像)をつくった。その重さは一個千石(三万キログラム)であった。

焚書坑儒  
 
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第二章

 始皇帝の名を印象づけるものに、悪名高い焚書坑儒がある。春秋千石の三百年間は戦いに明け暮れていたが、その半面、人間の内省期で孔子、孟子、老子、荘子をはじめとする、いわゆるる諸子百家の学説が一時に開花した思想的自由な時代であった。
 この時代はインドにおいては釈迦とその弟子たち、ギリシャにはソクラテス、プラトンなどの哲学者があらわれて、精神文化が昇揚していたのがおもしろい。
 しかし、何時の時代にも天下国家を統一する場合、戦いに臨む場合に学者の百家争鳴、反対論争は時の君主と政治を批判することになり追随者が現われ好ましくない。始皇帝は宰相李斯の献策を入れて・医学・ト笙・農業等に関する実用的な書のみをのこして、民間儒家の思想の書を没収し、焚いてしまった。勿論当時の書籍は竹や木に文字を書いたものであることは、先般の中国の古墳の発掘で明らかである。
 坑儒というのは四百六十数名の学者を坑に生き埋めにしたといわれており、後世の非難の的となっているが、一説では、これは皇帝と方士(老荘派の神仏道を説く学派)との衝突の結果ともいう。
 始皇帝は儒家の説を認めず、方士の言を信任していたが、その中に候生と虜生なるものがおり、不老不死の霊薬を求めて重用されていたが、実行が伴わずその成果があがらないので、始皇帝は怒って追放した。二人は逃げて皇帝の悪口をふりまいたので、咸陽の都の学者をしらべたところ彼等は口々に責任を他人に転嫁したので、容疑者は四百人以上に達した。しかもこれが偽方士であることが判明したのでこれを坑殺の刑に処したものであり焚書とは直接の関係はないとの説もある。
 秦帝国はわずか二代で滅びたが、やがて大漢帝国の基礎となった。始皇帝の業績は郡県制度の採用により中央集権制度の実をあげた。文字・度量衡・馳道・運河をつくった。天下統一のあと、始皇帝はほとんど毎年、新領土を巡行した。即位三年目に山東省に巡行して、泰山に登ったのは紀元前219年だったと言う。その碑文は司馬遷の『史記』にのこっている。

瑯邪台  
 
徐福出航の図
 
 

第三章

 始皇帝は数百人の偽方士を追放し処刑したが、なお仙術を信じて不老不死の霊薬を求める気持ちはすてなかった。長寿を欲するのは万人の心であり、富と地位を得たるものの欲求は一般に不老長寿に向かうのが常であった。
 皇帝が朝懌山の山頂から渤海を眺めたとき、水平線上に三つの島影が現われた。それは山東の海岸でときどき現われる蜃気楼だった。始皇帝は侍臣に命じた。「渤海の中には、蓬莱という神山があり多くの仙人が不老不死の仙丹を練っているという。凡人はこれに近づくことができないが、本物の方士なら行くことができよう。」
 徐福を呼べ、ということになった。徐福は処刑をまぬがれた方士の一人で、儒学にも通じ、インド留学もし仏教も学んでいた。
 しかも徐福は老荘派の神秘思想と儒学の合理主義を身につけていたので信頼がつよかったと思われる。
 史記本紀及列伝の大意は

   秦始皇帝、徐福をして海中に神薬を求めしむ、徐福数年を経といへども、曽て求むることを得ず、費頗る多し。されば始皇の譴らんことを恐れて、乃ち詐って曰く、臣海中に於て神に見ゆるに、言て曰く、汝は西皇の使なるや、汝は何をか求むる、答へ曰く年を延べ寿を益す薬を請ることを願ふ、神曰く汝秦王の礼薄し、故に観るといへども取ることを得ずと、即ち臣を従へて東南の方蓬莱山に至る。宮闕を見るに、使へる者あり、銅色にして龍の形、光り上りて天を照らす、是に依りて臣再拝して問て曰く、何を資らしめて献るべきや、海神の曰く会名の男子、若くは振工、百工の事とを以てせば、即ち之を得んと、秦始皇是を聞て大に悦びて振男女三千人をして是に五穀の種々、百工を資らしめて行しむ、徐福平原広沢に止りて終に帰らず。(史記本記には徐市とし、別伝には徐福とせり。)

とあり、「始皇帝も徐福の言に迷はされて、巨万の金を費やしたが、終に薬も手に入らず、徒に利を貧りけしからぬ奴だ」との風評を聞き、徐福の命も危くなった。徐福の事蹟については、史記の記述は統一がとれていない。それは事柄が荒唐無稽に近いので、伝え方がまちまちであったためであろう。恐らく徐福の計画は安住の地を求めるための霊薬探しは口実であったと思われるので、つとめて準備に時間をかけて万全を期したに相違ない。
 徐福の組織した遠征隊は大船八十五隻、食糧は勿論、蓬莱島の仙人と住民への贈物、金銀珠玉、五穀の種子、各種の器具、童男童女各千人、航海術に長じた、壮年の夫婦者を加えた大遠征隊と見てよいと思われる。
 従って徐福の霊薬探しは、見方によっては大秦帝国の滅亡を予見して大陸を脱出したのではなかろうかと見られる。

参考文献:佐賀民俗学三号より
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