【内藤大典 ないとうだいすけ】

昭和3年2月28日生まれ。
明治工業専門学校(現九州工業大学)を卒業し、昭和24年、西日本新聞社入社。新聞記者として約10年編集関係に勤務。昭和33年、TNCテレビ西日本創業の際、転出。昭和54年、サガテレビに移り、専務、副社長。昭和63年よりアジア文化交流振興協会専務理事として古代史を研究。平成17年7月死去。


 内藤大典は平成10年に出版「虹を見た」の冒頭「私が佐賀の母なる海-有明海-の波静かな海面を眺めながら古代有明海文化圏を古代史のテーマとして世に問うにはどうすればよいのか一人想いにふけっていたとき、私は海の彼方に”虹”を見た。その七色の光の中に私は『徐福』の二文字をおぼろげに見た気がする」と書いている。
 確かな虹を見ようと20年間の葛藤を続け、平成17年7月に「徐福と吉野ヶ里遺跡」の最後のまとめの章を執筆中に筆を持ちながら机にもたれたまま、帰らぬ人となってしまったのである。

 
 

 今から二千二百年前(紀元前210年)の十二月上旬、初冬の有明海は小春日和の陽光が、浅い海にキラキラと光り輝くうららかな海であった。その青い海の沖合いに突然異変が起こった。中国古代の大翼船十数隻の巨大な楼船の船団が、姿を現わしたのだ。
 先頭の船に飾られた「徐」の字の旗を見ても、まぎれもない中国の江南からの徐福船団の噂に違わぬ日本列島への渡来の風景であった。風説では徐福をリーダーとする中国からの大規模な渡来集団が有明海にやって来るとの噂であった。その噂が事実になったのである。
 佐賀平野の縄文人たちは、今までに少人数ではあるが中国から王族などの渡来人の集団移住を、数回経験していた。しかし、これほどの大船団は縄文人にとっても大きな驚きであった。だが、この大船団が弥生時代の息吹となるとは、この時だれも予想しなかった。
 徐福船団はなぜ、有明海沿岸の佐賀平野に渡来してきたのか。それは中国の史書に書かれているように、徐福は不老不死の仙薬探しと同時に、日本列島のどこかの平原広沢に適地を求めて弥生のコメを大増産し、その地に王道楽土のクニをつくろうと夢みていたからであった。徐福はこの時、既に起こっていた地球寒冷化のため生じた有明海の弥生の小海退で、佐賀平野に水田稲作に好適の広大な低湿地ができているとの情報を事前に察知していたのである。
 しかも徐福の故郷の江淮地域と佐賀平野とは「北緯33度」で地形も気候条件も全く相似ていることも知っていたので、リーダーの徐福も徐福船団の乗組員全員も「ここはわが故郷そのものだ」と叫んだことであろう。
 沖合の徐福船団(恐らく十六隻)の巨船に向かって急ぐ出迎えの水先案内の小船には、徐福上陸地の石碑がいま立っている佐賀郡諸富町浮盃地区の縄文人の水夫らが乗っていたが、この直後に日本の歴史を彩る日中の古代文化交流の第一幕の劇的な出会いが、有明海の船上で日中双方とも予期せぬ形でその幕を開け、この徐福の渡来が日本に新たな時代の門戸を開いたのである。

〜内藤大典著:「吉野ヶ里と徐福」より〜