文献と伝承の交錯する徐福像
 

 道士徐福が不老不死の薬を求めると秦の始皇帝を偽り、内実は新しい国を造ろうとして、多数の童男童女及び職人とともに五穀の種を持って東の海に船出をしたという記事は、中国の多くの史書に載っていて疑うことは出来ない。そして徐福の行った夷州・亶州というのは日本ではないかと考えられていたのも中国の史書で明らかである。
 とすれば、徐福はどこから日本に船出をしたのだろう。史書ではそれは山東省の琅邪ということになっている。『史記』にも「斉人徐福」とあり、徐福が山東省の人であるとはっきり書かれている。しかし1982年、山東省ではなく、もっと南の江蘇省に別の徐福の根拠地が見つかったのである。それは江蘇省連雲港市カン楡県金山郷にある徐j福村であることが分かった。そしてその周囲から秦漢時代の様々な遺跡が発見され、特にそこから発掘された石薬研と鉄製の工具と大量の鋳物クズは、徐福と結びつく重要な遺物であるとみられる。ここで1つ面白いことがある。それは琅邪のある山東省は小麦地帯であるが、この徐福村のある江蘇省は稲作地帯の北限であるということである。徐福は五穀の種を持って東に行ったというが、もし徐福が山東省の琅邪ではなく、江蘇省の徐福村と何らかの関係を持っていたとすれば、徐福が持っていた五穀の種というのは、主に稲ではないかという疑いが起こってくる。
 中国では、徐福は、日本に行ったという伝承が強いが、その噂にふさわしく、日本の各地には徐福の伝説が残っている。その最も著しいのが和歌山県と佐賀県である。和歌山県の方は新宮市が中心で、徐福の墓地と徐福を祀る神社がある。徐福は三千人の童男童女と多数の職人を連れて来たというのだから、多くの船に分乗したと考えられるから、この徐福船団は、潮流の関係から言っても、同じ所に着いたとは思えず、日本国内及び国外の様々な場所に流れ着いたと考えられる。とすれば、徐福の上陸が2つ以上あっても構わないと考えられるが、もし徐福が稲作農業をもって日本に渡来したと考えるならば、農業の盛んな佐賀県の方が和歌山県の熊野地方より若干有利であろう。
 佐賀県にはまだ他にも徐福の伝説の場所が残っているが、それはもちろんそのまま史実であるというわけではない。しかし19世紀の史学がもっぱら史料のみを頼りに歴史を考えたのに対して、20世紀後半の史学は、むしろ文献の史料を考古学や民俗学で補強してもう一度歴史を考え直そうとするところに新しい方向がある。その意味で新しい歴史学は、伝承を、史料を補う重要な証拠としてもう一度用いることを許容する歴史学であろうが、徐福のような文献と伝承の交錯する人物は、さしずめ新しい歴史学の絶好の課題なのである。佐賀と徐福はすぐに100%結びつくわけではないが、佐賀平野が古くから肥沃な稲作地帯であったことと、ここに残る徐福伝説の多さは、やはり佐賀が、中国の文献においてははっきりしているが、日本においては伝承にすぎないこの徐福という捉え難い人物を捉える有力な鍵を提出することは間違いない。徐福と佐賀を結びつけるもっと有力な証拠はないのか。